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2022/09/07 17:17


今回のオンライン陶芸体験で作り上げていくのは【笠間焼】という種類の焼物。
古くから良質な石材が採れ、明治時代には日本最大級の採石地となった笠間市で発達したものです。

出土する石材は“稲田御影石”と呼ばれ、日本を支える数多の建築物の礎として利用されてきました。
採掘された良質な石材やそれが風化した粘土は笠間地域の人々の手にも渡り、やがて関東で最も古い歴史を持つ笠間焼へ発展していったんです。

焼物の基本は、粘土を掘り、こね、成形し、焼いて、器にすること。
そのため、良い粘土が出土する地域では焼物が盛んになる傾向があるのです。

ここ笠間地域では、笠間地区から筑波山にかけて存在するする花崗岩(御影石)が自然に育まれ、風化堆積して生じた粘土が出土します。この粘土は粘りが強く成形しやすいため焼物に適しており、笠間焼という日本焼き物界に影響を与えるほどの、大きな文化が発達していったんです。

例えば栃木県益子町の益子焼は笠間焼の製法を受け継いで誕生した文化と言われています。山形県山形市の平清水焼や、栃木県馬頭町の小砂子焼 なども笠間焼と関わりがあるとされていますね。

笠間焼は、粒子の細かい粘土によって構成されるためとても丈夫であり、豊富な鉄分から素焼きで褐色に発色することが特徴です。
多くの場合は、焼成前に、釉薬(ゆうやく)を流し掛けたり、重ね描きという手法を用いたりして、装飾を施していきます。 

笠間焼の始まりは、安永年間(1772~ 1780)。江戸時代に箱田村(現在の笠間市箱田)の久野半右衛門さんとういう方が信楽の陶工・長右衛門さんの指導で焼物を始め、窯を築いたことで始まります。
清久によると、寛政・文化年間(1789~1817)には、笠間藩主 牧野貞喜が製陶業を保護・奨励していたとあり、当時いかに注目された取組みだったかが伺えます。

さらにこの藩主さんは笠間城内で良質の粘土を発見し、自らも「お庭焼」を始めます。 この「お庭焼」というのは大名が自邸の窯で作らせた焼物、という意味。
その後、藩としても笠間焼は大事にされ幕末の文久年間(1861~1863)当時の藩主である牧野貞直が6つの窯元を「仕法窯」として指定し、窯業を保護・奨励しています。

さらには明治2年(1869)になると、美濃藩(現・岐阜県)の陶器商・田中友三郎が「仕法窯」の1つ「関根窯」を譲り受け窯業を始めています。
彼はこの際、笠間地域の焼物に「笠間焼」と名付け、販路を拡大させました。 

そんな勢いを持つ笠間焼、そして笠間地域には、笠間稲荷の存在によって開通していた街道を通し、技術者や従事者が集結。現代でも多くの方が焼物を製作する、焼物の街となっていったのです。

今回のオンライン笠間焼陶芸体験ツアーでは笠間焼の陶芸家さんが講師となり、丁寧にガイドをしてくださります。
陶芸家となったきっかけや、笠間焼ならではの特徴、焼成の温度の違いや心掛けていること、コンセプトなど……。
このツアーだからこそできるコミュニケーションを通して、笠間焼や焼物、そして作家さんについての知識を深めてみてくださいね!

詳細は商品ページをご確認ください。




発展していったんで

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